郵政博物館

博物館ノート

日本郵便制度の原点―前島密が「改正増補郵便規則」序文に託した未来像

郵政事業の変遷

「郵便規則」について 「序文」に示された前島密の近代郵便のビジョン

1 「郵便規則」について

 前島密は、郵便創業の第一歩として「郵便規則」の草案作成に着手しました。その作成に際し、細心の注意を払いました。明治4年3月1日(1871年4月20日)に東海道各駅に新式郵便を試験的に施行した際には、まだ全国に実施するわけではなく、規則として発布するのはいかがなものかと考え、また、どうしたら官民に差し支えなく円満に行われるかを常に心配していたので、規則などという厳格な名称は用いず、書状を差出す者の心得【図1】として発布することにしたと回顧しています(1)
 1872年1月14日(明治4年12月5日)、東京長崎間に郵便が開通した日に、最初の「郵便規則」が制定されました。その草案を作成した時も、文字文章は懇切丁寧を主として、特に尋常かつ平易の言葉を用い、一般人民に分かりやすい最良の方法を採ることに専心しました。
 1872年4月(明治5年3月)、郵便事業の全国展開に備え、「郵便規則」が改訂されました(「改正増補郵便規則」【図2】)。以下に示す文書は、その冒頭に掲げられた諭告文です(原文の旧字体や異体字は現代表記に改め、難読漢字には括弧内にふりがなを付けています)。

凡そ国の称ある所以のものは、人民其言語風尚を一にし、政令緒ありて権利相悖(もと)らす、相交之誼を通して其憂楽を同ふし、千里の遠きに離隔するも、一区の近に住する如く、共に憲典に遵由して、能く一社の友情を遂るをいふ也、今夫れ交情を相通し、均しく政令を相奉し、一社之友を為す者は、僻境辺陬(へききょうへんすう)に至る迄、郵便之道自在にして互に信書を往復し、歓を報じ苦を告げ、有るを以て無きに易(か)へ、婚媾(こんこう)貿易製産開墾、東に起るを西に報し、南に止むを北に諫め、四方之物情響応するを以てなり、特其国内之社友のみならす、海外万里之国と雖ども、互に交際之道を開き、彼我の民人来往し、亦朋友之看をなせハ、随て往復之信書あり、必ず郵便無かるべからず、故に欧米両州之国に於てハ、重く駅逓之官を置き、或は公入之財を費し、一に郵便に従事せしむ、已に昨年米国之政府殆んど五百万元(ドル)之大金を郵便一事に費せりと、此理も深く沈思せざるべからず、夫れ欧米国民之如きハ、素より政府之力を借らずして、陸に鉄道之車を転し、海に火輪之船を浮べ、物貨の運輸行旅之往来万里遠隔之土地と雖ども、絶て障碍ある事無く、之を能く掌るの知識ありと雖ども、現に利あるを見るにあらざれば、業を開くに力無く、決して荒陬僻野(こうすうへきや)迄二三之信書を達する能わず、果して之を達せんとせハ、大に価を増さざるべからず、何ぞ均一之低価を以て遍く遠近に達するを得ん、況や海外郵便之如きハ甲に送る一封之書も、乙丙丁之数国を歴(へ)て之を達するものなれハ、固より会社或は一商の能く得て弁ずべき業にあらず、是を独り政府の当て任ずる所にして、乃ち其施設ある所以なり、古来吾国信書之事は、一に商民の私業に帰し、政府是に与(あず)からざるより往復最も渋滞して、喩へは陸羽に住する人肥薩之人に書を送るは唯幸便を待つのみにて、多くは年を経月を重ね、或は達するに道を知らず、況して北海道之遠きに於てハ、恰も絶海無航と同しく聲音幾んと阻隔して、民俗土風異境之看をなさんとす、しかのみならず既に外交ありてより、彼之民我地に住する者万を以て数ふるに至り、又我民之彼に遊ぶ千余之数に及ぶべし、互に文書之往来あれども我より之を達する道なく、彼の国政府之駅逓院より官吏を横浜等に派出して此往復を司らしむ、堂々たる我帝国にして、斯る大典を欠きたりしは実に此民之不幸と謂べし、故に左之郵便規則之通り、海内一般郵便之方法を開き、僻邑(へきゆう)辺村に至る迄信書不達の地無からしめ、併せて新聞書籍見本品迄広く之を逓送せしめ、交誼を厚し文化を拡め貿易生産繁殖之本、凡そ民人に益ある郵便の事ハ駅逓寮に司らしめ、国之国たる由縁を実し、終に海外通信之国何れの土地も、吾郵便切手を以て音書自由之約を成し、此欠典之憾無からしめんとの御趣意なれば、衆庶能くこの理を解して其隆渥(りゅうあく)の国恩に報ふる事を勉むべき也

    明治五壬申年三月              大 蔵 省

2 「序文」に示された前島密の近代郵便のビジョン

 「序文」の冒頭では、「国と呼ばれるものの要素」について、「そこに住む人々が同じ言語を使い、同じ風俗や習慣を持ち、同じ政治のもとで互いの権利を侵さず、親しく交わることを通して、喜びも悲しみも共にするところに成り立つもので、たとえ千里離れたとしても、まるで同じ地域に住んでいるかのように、同じ憲法に従い、一つの社会の友情を深めることができること」とし、それを可能ならしめるのは、「国の隅々に至るまで郵便が自由に通じ、手紙を送り合って喜びや苦しみを伝え、有るものを使って無いものを補うことができるからである」と説いています。
 さらに、「国内だけでなく、海外の遠い国々とも交際の道を開き、互いの国民が行き来し、友人のように付き合う以上、当然手紙の往復が生じるので郵便制度が欠かせない。それゆえに欧米諸国では郵便を重視し、政府が多額の費用をかけて郵便事業を行っている。これは民間会社や商人が担える仕事ではなく、政府だけが行える事業であり、『郵便規則』に基づき、国内一般に郵便制度を広げ、どんな僻地にも手紙が届くようにし、新聞・書籍・見本品なども広く送れるようにして交際を深め、文化を広め、貿易や生産を盛んにし、国民に利益をもたらす郵便事業を駅逓寮が担当することとした。これによって国としての体裁を整え、海外のどの国とも郵便切手で自由に通信できるようにし、これまでの欠けていたものをなくそうという趣旨であるから、国民はこの道理をよく理解し、この厚い国恩に報いるよう努めるべきである」と諭して締めくくっています。
 平易な言葉を用い、一方で文中に東西南北など対句の使用、中国の古典にある言葉の応用と思われる表現(「有るを以て無きに易へ」)(2)、漢詩の持つ独自のリズムを彷彿とさせる文体は、幼い頃から漢学の素養を積んだ前島密ならではのものといえるでしょう。
 そして後に、前島はこの「序文」について、民間のみに向かって諭告したのではなく、併せて官界に向かっても郵便の必要性を理解させるためのものであり、さらに翌年に計画していた信書送達の事業を政府の独占とし、民間による運営を禁じることにより起こりうる「飛脚屋」からの大苦情を未然に防ぐために伏線を設けたと述懐しています(3)
 前島がこの序文の草案を大蔵省に提出した時、同省の三等出仕となって間もない渋沢栄一(4)はこれを読んで手を打ち、「私もこれで大いに郵便のことが分かった」と述べ、大いに賛成したのみならず、進んでその文章字句の修正も手伝ったといいます(5)。こうして完成したのが「改正増補郵便規則」です。
 この序文は大蔵省から出されたものであり、1873(明治6)年11月10日に駅逓寮が大蔵省から内務省に移管された後に公布された「明治八年 日本帝国郵便規則及罰則」(太政官布告第135号、1874年12月23日)から掲載されなくなりました。わずか2年半の掲載に終わりましたが、この序文に込められた前島密のビジョンは現在も日本郵便に息づいています。

(主席学芸員・田原啓祐)

  1. 「帝国郵便創業事務余談 其七」(前島密口述・宮本橘洲筆記)『交通』第11巻第103号、1895年4月10日、11-12頁。
  2. 「有るを以て無きに易へ」の文は、『孟子』の「梁恵王章句上」にある「以羊易之」(羊を以て之(牛)に易う。小さな物を大きな物の代わりにすることのたとえ)を基にして言い換えたものか(内野熊一郎『新釈漢文大系4 孟子』明治書院、1962年、28頁)。
  3. 前掲、「帝国郵便創業事務余談 其七」、13頁。
  4. 1872年3月20日(明治5年2月12日)に大蔵省三等出仕に任ぜられ、実質的に大蔵次官の地位となった(渋沢青淵記念財団竜門社『渋沢栄一伝記資料』第3巻、渋沢栄一伝記資料刊行会、1955年、309頁。デジタル版『渋沢栄一伝記資料』、公益財団法人渋沢栄一記念財団 https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/viewer.php?imgurl=030309)、(参照2026 04-24)。
  5. 前掲、「帝国郵便創業事務余談 其七」、13-14頁。