郵政博物館

博物館ノート

明治期の郵便と熊害

郵政事業の変遷

はじめに 1.逓信省の害獣対策 2.逓送人の熊被害

はじめに

 日本の近代郵便は1871(明治4)年に創業し、翌年には全国に展開されました。当時の郵便逓送(局間運送)人や集配人は、整備の不十分な山林原野を通行することも多く、熊や猪、狂犬、毒蛇などの危険と隣り合わせでした。

1.逓信省の害獣対策

 1885(明治18)年、交通行政を管掌する官庁として逓信省が創設されると、害獣対策として逓送集配人の装備が整えられていきました。
 その第一は、短銃です。これは1873(明治6)年から賊徒対策として危険地域の各局に支給された(1)ものですが、1887(明治20)年に使用条件が緩和され、逓送集配人が「強盗ノ脅迫」のほか、「猛獣ノ危難ニ遭遇」した場合にも発射できるようになりました(2)。「郵便物保護銃」という名称も、このときに定められています。
 第二は、喇叭(らっぱ)【図1】です。これは1891(明治24)年から本省交付品に加えられた(3)もので、当時の絵図には、騎馬逓送人がこれを吹き鳴らしながら山道を進むようすが描かれています【図2】。1895(明治28)年の公達では、これを「猛獣予防」と「舟子召呼」(渡し場で船頭を呼ぶこと)のために使用することが明文化されました(4)
 第三は、鐸鈴(たくれい)です。これは上記の公達において、喇叭と同じ用途のために使用が認められました。詳細は未詳ですが、当館には鐸鈴として大ぶりのハンドベル2点【図3】が伝わります。今日でも使用される、熊鈴の一種といえるでしょう。

2.逓送人の熊被害

 このような対策によっても、逓送集配人は熊などの害獣を完全に避けることはできませんでした。
 1897(明治30)年922日、北海道南西部の岩内郵便電信局から磯谷方面に向かう逓送人(氏名不詳)が、雷電山の峠で背後から熊に襲われました(5)。彼は着ていた合羽を脱いでこれを逃れ、あらかじめ用意していた火道具で追い払ったと報じられています。雷電山は猛熊の出没で悪名高く、逓送人の雇い入れに応じる人もなかなか見つからなかったといいます。
 同年111日、同局の逓送人であった吉村市太郎(19才)が、またも雷電山で被害に遭います(6)。市太郎は深夜2時頃、11キロを超える郵便行嚢を背負って局を出発しましたが、同山を通りかかったところで竹やぶから猛熊が踊り出し、鋭い爪で背中を搔きむしられました。とっさに倒れ込んで死んだふりをし、全身を撫でまわされながらも息を殺していると、ついに熊は去り、一命をとりとめたといいます。
 驚くべきことに、その後市太郎は負傷を顧みず、「大切なる郵便物」を届けるため「勇みに勇みて」目的地まで歩みを進めました。しかし傷の痛みで完遂が見込めず、やむなく通行人に助けを求めて帰局し、すぐさま岩内病院に入院することになりました。その後、「職務を重んずるの誠意」が評価され、札幌監督局長から慰労手当20円が給与されています。
 明治期の郵便事業は、このように危難をおかして職務にあたった、無数の現業人に支えられていたといえるでしょう。

(学芸員・倉地伸枝)

(注)

  1. 18731228日に東海道筋の28県へ、その後段階的にほかの各府県へ交付された(駅逓局編『駅逓局類聚摘要録』、1885年、612-613頁)。
  2. 「郵便物保護銃規則」1887427日、公達第87号。同日、「郵便物保護銃取扱心得」公達第88号も併せて達せられた。
  3. 「郵便事業及事務用器械物品交付規程」189162日、公達第225号。これは前年327日に達せられた同名の規程(公達第91号)を追加改正したもの。
  4. 1895712日、公達第252号。
  5. 以下、「郵便逓送人危難を免る」『交通』第163号、18971010日、31頁。
  6. 以下、「勇敢なる逓送人」『交通』第171号、1898212日、38-39頁。