「技芸官」「切手デザイナー」、名称の移り変わり
郵政事業の変遷
1 切手デザインのはじまり 2 技手の時代 3 技芸官の登場4 切手デザイナーの登場
1 切手デザインのはじまり
1871(明治4)年に発行された日本初の切手である「竜文切手」は、大蔵省出納寮が監修し、民間企業である松田玄々堂(1)がデザインから印刷までを担当しました。1872(明治5)年以降は、大蔵省紙幣寮が全工程を担当していましたが、1885(明治18)年に逓信省が発足すると、外注ではなく省内で図案のデザインを行うことが議論されるようになります。
試験運用期間を経て、1892(明治25)年7月には郵便切手の改良に関する業務が「郵務局計理課物品掛」に加えられ、初めて切手のデザインは省内で行うことになり、現在と同じ制作スタイルに変わっていきます。
2 技手の時代
その後は一時期、当館の前身である「逓信博物館」に設置された周知係で切手の製作に関する業務が継承され、博物館が切手のデザインを担当することになりました(2)。
初代切手デザイナーと言える人物は、当館の初代学芸員でもある樋畑正太郎(雪湖)です。この当時の肩書には、切手をデザインする担当者を表すような個別の呼称はありませんが(3)、明治から昭和初期にかけて「技手」という表記が登場します。例えば1935(昭和10)年の名簿には、切手原画を担当した吉田豊、加曽利鼎造の名前の上に「技手」と記載されています(4)。
(注)
- 竜文切手は、1869(明治2)年から明治新政府の依頼を受け、太政官札などの紙幣製造を請け負っていた銅版師松田敦朝の工房である玄々堂に委託して製作された(郵政省編『郵政百年史』吉川弘文館、1971年、67頁)↑
- 当館に設置された周知係は1935年6月から1944年9月まで、逓信省の周知宣伝機関として機能していた。当時の切手デザイナーの部屋も博物館内にあり、切手図案や事業ポスターの製作などを担当した。(拙稿「郵政博物館の切手類資料の存在-『高松塚古墳保存寄付金つき郵便切手』の製作資料を例に」『郵政博物館 研究紀要』第14号、2023年3月、82頁)↑
- 樋畑正太郎は、郵便博物館の欄に「逓信属、一級従七位勲七等」と記載があるのみ。樋畑は、図案も担当したが、主に博物館の資料収集など各方面に関わる業務を担っていた。同時期で技手の明記がある職員は、小代為重(兼務・通信技手)がある。『逓信省職員録』1905年7月1日、24頁(AHA-0008)↑
- 『逓信省職員録』1935年4月、9頁(AHAー0148)↑
- 郵政省発足時は、郵便切手普及係長(『郵政省職員録』1946年8月、5頁(AHA-0198))、1954年から周知係長が担当(『郵政省職員録』1954年10月、8頁(AHA-0198))↑
- 『郵政省職員録』1959年10月、11頁(AHA-0216)↑
- 『日本郵政公社職員録』2003年10月、11頁(AHA-0353)↑
- 日本郵政グループ公式ホームページ、JP cast 2025年3月6日掲載「切手はこうして作られていた!日本に8名しかいない切手デザイナーの1日を取材!」(https://www.jpcast.japanpost.jp/2025/03/512.html 2026年1月16日最終アクセス)↑

