博物館ノート

ラジオ体操

収蔵品

ラジオ体操は、昭和3年に天皇陛下ご即位の大礼を記念して、当時の逓信省簡易保険局が制定し、日本放送協会の協力を得て「国民保健体操」の名称で国民の健康保持増進を目的として実施したのが最初です。

当時の世相は、産業界の不況、労働条件の劣悪さ、人口の都市集中化、その上、国民の健康状態は栄養不良により欧米先進国に比べてかなり低い状態など暗い世相にうちひしがれていました。このような状況下で、ラジオ体操は式典に呼応した記念行事の一環として、明るさを求めていた当時の国民の願いを担って登場しました。

ラジオ体操50年記念切手 昭和53年8月1日発行
ラジオ体操50年記念切手
昭和53年8月1日発行

ラジオ体操が電波にのるまで

日本にラジオ体操の導入を推進した人物は、逓信省簡易保険局監督課長の猪熊貞治さんと同規格課長の進藤誠一さんです。猪熊さんは、大正12年5月に欧米の簡易保険事業を調査するために出張した時に保険会社が体操をラジオ放送に流す計画を知り、画期的な試みだと感心しました。帰国後、『逓信協会雑誌』に「ラジオ放送による健康体操の実施」を提案しました。その結果、昭和2年8月簡易保険局の会議でラジオ体操実施が決定されました。その後、日本放送協会や文部省、生命保険会社協会に協力を依頼し、協議が進められ昭和3年9月12日にラジオ体操の運動と伴奏曲が披露され、9月18日に名称を「国民保健体操」と決め、昭和3年11月1日放送を開始しました。

「国民保健体操」 昭和4年
「国民保健体操」
昭和4年

「ラヂオ体操の会」 昭和6年から「ラヂオ体操の会」が東京神田で始まり、全国規模に 昭和6年
「ラヂオ体操の会」
昭和6年から「ラヂオ体操の会」が東京神田で始まり、全国規模に
昭和6年

「護れ健康励め体操ラヂオ体操5周年」 昭和8年
「護れ健康励め体操ラヂオ体操5周年」
昭和8年

ラジオ体操の歴史

昭和7年には、より高度な運動を取り入れた「第2ラヂオ体操」を作りました。同7月21日からラヂオ体操第2の放送が始まると同時に「夏休み全国ラジオ体操の会」も開始されました。この体操は、目覚ましい勢いで家庭、職場にと全国津々浦々にいたるまで普及していきました。昭和14年には「全国ラヂオ体操の会」が結成されました。昭和16年4月1日に文部省の用語用字統一にならい「ラヂオ」を「ラジオ」に改めました。

しかし、終戦となり、ラジオで全国一斉に実施するラジオ体操が軍国主義的であると連合郡総司令部から指摘され、昭和21年に放送を中止しました。

その後、国民の中にスポーツに対する関心が高まり、誰もが行える気軽な運動として、ラジオ体操の復活を望む声が多くなってきました。

そこで、簡易保険局では、ラジオ体操の復活を決定し、各方面に働きかけを行い、昭和26年に新ラジオ体操が完成し、NHKの全国放送によって放送が開始されました。

新ラジオ体操は、ラジオ体操復活の熱望があっただけに国民の間に反響を呼び、あっという間に全国に普及していきました。

翌27年には、比較的高度な技術を取り入れた職場向きの第2体操を作成し、第1体操とともに全国放送しました。これが、現在の「ラジオ体操第1・第2」です。

平成11年には、国連の「国際高齢者年」にちなんで、「すべての世代の社会をめざして」のテーマに基づいて、幅広い人々を対象とした新しい体操「みんなの体操」を制定しました。この体操には、ユニバーサルデザインの考え方を取り入れ、年齢・性別・障害の有無に関わりなくすべての世代の人々を対象に、誰もが楽しく安心してできることを考慮し、予防の観点もふまえて現状の健康を維持すること、体操を行うことに満足感が得られることを目的としています。

このようにラジオ体操は、老若男女、障害の有無を問わず、いつでも誰でもどこでも手軽にでき、健康増進・体力作りに大きく寄与しています。

現在、全国には、約2万人のラジオ体操会があり、多くの人々が毎朝行っており、愛好者は全国で約3,000万人にも及ぶといわれるまでに発展しています。

ラジオ体操のチラシ
ラジオ体操のチラシ

ラジオ体操参加票
ラジオ体操参加票

ラジオ体操70年記念の参加票 (裏面が参加票)
ラジオ体操70年記念の参加票
(裏面が参加票)