博物館ノート

2号自動式卓上電話機(ダイヤル式第1号)

収蔵品

電話をかけると呼び出し音の後に相手が直ぐに出て話を始められますが、その前は交換手に話をしたい相手の電話番号を伝えて繋げてもらっていました。今のようになったのは機械によって電話を繋ぐ、自動式交換になったからです。
自動式交換方式で電話をかける電話機にはそれまでの電話機には無い、新しい部品が必要になりました。ダイヤルです。
ダイヤルを廻して指を離すと自動的に元の場所に戻ります。その戻る時に電流が流れます。電流は信号となって電話線を通り、自動交換機に接続されます。
自動交換機は一八八七(明治二十)年、アメリカでストロージャーが発明していますが、日本に自動交換を採用すると言う話が出たのは第一次世界大戦後でした。
第一次世界大戦中の好景気で電話加入者数は増えました。ところが民間の景気が良いから転職する交換手が増え、結果、交換手の勤続年数が一年足らずになってしまいました。熟練者不足で交換効率は低下、手動局は増えたために局間中継線の数が増えて複雑になり、接続間違いも多く混乱を来しました。このまま手動交換ではサービス向上は難しい、自動交換を採用するしか手がないということになったのです。
一九一九(大正八)年、逓信技師の山根幸知が訪米、自動交換を調査しました。
日本で最初に自動交換機を使用したのは国内ではなく、大連電話局でした。当時の大連は様々な国籍の人がおり、電話交換のサービス上に困難を感じていた為、一九二三(大正十二)年四月に設置されました。
日本国内では関東大震災後、一九二六(大正十五)年一月二十日午前零時から東京京橋局で、同二十五日には本所局でA形交換機による自動交換が、次いで横浜にH形による自動交換が始まりました。使われた電話機はA形はアメリカ、ウェスタン・エレクトリック社製のアントワープ形共電式電話機にダイヤルを取り付けたものを、H形はドイツ、ジーメンス社の電話機を使用しました。
一九二七(昭和二)年、沖電気の一号ダイヤルが逓信省の検定に合格しましたが、受話器に雑音が入るので改良型の二号ダイヤルが作られ、二号自動式卓上電話機が登場しました。

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この記事は、「逓信総合博物館 展示品・所蔵品紹介」『通信文化』(14号、通巻1224号、49p、公益財団法人通信文化協会発行、2013年)掲載記事からの転載です