博物館ノート

東海名所改正道中記

収蔵品

「東海名所改正道中記」は、日本橋から京都までの五十九枚に目録を加えた六十枚で構成された一連の錦絵です。明治八(一八七五)年に三代広重によって描かれました。三代広重は、父が船大工業に就いていましたが、初代広重の門人となり、文久年間から重政と称し、執筆を始めます。慶応元(一八六五)年に二代広重が師家を去った後、同家を継ぎ、幕末から明治にかけて、文明開化絵や横浜絵、東京名勝絵、諸国物産絵等を制作しました。
次の図は、「東海名所改正道中記」のうち「電信局日本橋 新橋迄十六町」と題された錦絵です。
上部には「東京は日本一の大都会なれば世界いっぱん諸人あつまる処也 ことに日本はしは市中の真中にありて魚市あり 電信局ははりがねにて世界一同膝ぐみに咄致程の調法也」と書かれています。日本橋の北側には、一心太助も通ったという魚市場があり、関東大震災後に築地へ移転するまで大いに賑わっていました。また、図の左手、橋の南詰には、明治五(一八七二)年に開局した日本橋電信局が描かれています。他の建物と同色の屋根や壁で配色されていたため少々区別が付きにくいですが、庇付の開き扉を携えた白い洋館造りで、横には電信柱が設置され、電線が架設されていました。
また、橋の袂には、袴姿でザンギリ頭の男性や洋傘を差した洋装の男性が描かれていますが、それとは対照的に髷を結った人々の姿も図中に多く描かれています。幕末の約十年間は、髷を結った人とザンギリ頭の人が入り混じって生活をしていました。
この「東海名所改正道中記」には、洋傘や洋服など西洋式の新しい文化が多く描かれています。このような錦絵を「文明開化絵」といいます。これらは、その詳細な内容から歴史的・風俗的意義も高く、明治前期の世相や風俗を生き生きと伝えています。

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この記事は、「逓信総合博物館 展示品・所蔵品紹介」『通信文化』(12号、通巻1222号、40p、公益財団法人通信文化協会発行、2013年)掲載記事からの転載です