博物館ノート

原爆の悲惨さ伝えた「はがき」

収蔵品

昭和20年8月9日、長崎に原爆投下——。このはがきは、被爆地の状況を生々しく、そしていち早く伝えた一枚です。
当時熊本の第五高等学校2年生だった相川賢太郎氏は、13日に長崎の惨状を熊本に住む友人の千地萬造氏にあてて書き、翌日に避難先の大村市内のポストに投函しています。
はがきに残る日付印は、終戦の日の8月15日です。このはがきに「敵機と追ひつ追われつ肝を冷やしながらも約20時間の後無事長崎に到着」とあるような原爆と終戦の大混乱の中でも、はがきは2、3日で熊本の五高習学寮に配達されており、郵便局の業務がしっかりと機能していたことを物語っています。

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図1 8月15日の日付印の残る表面

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図2 はがきいっぱいに書き込まれた文面

<図2のはがきの原文>

敵機と追ひつ追われつ肝を冷やしながらも約20時間の後無事長崎に到着致しました。新型爆弾の威力を目前に見せつけられた時、自分は思わず戦慄するのを覚えました。これが人類自滅の凶器となるかも知れません。被害の跡たるや焼け跡と云ふより寧(むし)ろ小さな砂漠と云った方がピンと来る程です。周囲の山は一木一草悉(ことごと)く枯れ尽し正に死の色を呈して居ます。赤黒い死体は或いは躍ったようにし、或いは椅子に掛けたまゝあちこちに散見せられ、新爆弾が如何に大いなる力を瞬間的に発揮するものであるか如実に物語って居ます。
幸いにして自分の家は少々の被害を受けただけで家族一同無事でほっと胸を撫で下ろしました。長崎は危険なので今日(13日)早朝徒歩で表記の所に待避して居ます。自分のこの葉書は毫(わず)かも誇張はありません。真実そのまゝです。五高生は未だ余りにも新爆弾を軽視し過ぎています。もっともっと待避も速くそして待避壕ももっと完備される様に切に御願ひます。まずはとりあへず御知らせまで。諸兄に宜敷く。