博物館ノート

「男爵前島密君生誕之処」碑

収蔵品

写真は、前島密生誕地(現在の新潟県上越市下池部にある前島記念館敷地内)に建てられた石碑の除幕式の様子です。
当時の池部郵便局長坂田増五郎が前島の没後三周年に向けて「故前島男爵建碑趣意書」を作成し、増田義一(実業之日本社創業者)の他に各地の有力者等五七名が賛成員として名を連ねました。
趣意書の内容は、荒廃した前島生誕地に記念碑を建て、前島の功績を永久に伝え、後進の手本にしたいというものでした。そして、「計画之概要」として「旧邸地買収」、「記念石碑建設」、「邸地整理」の三つの計画が掲げられ、それらに要する経費として、総額一万五千六百円(※当時の教員初任給が四五円程度)が計上されました。
そのため、前島密の息子弥(わたる)の他、「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一、小林寅次郎(ライオン株式会社の前身、株式会社小林商店社長)、浅野総一郎、岩崎久弥、大倉喜八郎といった財界著名人や各地の郵便局長等が寄付を行い、費用を準備しました。
石碑のサイズや材質は「高サ壹丈貳尺(約三.〇三m)幅参尺(約〇.九m)厚貳尺(約〇.六m)基礎工事ノ上ニ土台石方六尺(約一.八m)高四尺(約一.ニm)ヲ置ク周囲ニハ石柵ヲ続ラシ石材ハ凡テ花崗岩ヲ使用」と記されています。
石碑の表面の文字は渋沢栄一が書き、裏面の文章は市島謙吉(早稲田大学図書館建築委員)が選定、會津八一(早稲田中学校教頭)と小説家の坪内逍遥が校閲し、書家の阪正臣が書きました。
裏面には、次のように書かれています。
「日本文明の一大恩人がこゝで生まれたこの人が維新前後の国務に功績の多かつたほかに明治の文運に寄与して永く後世に伝ふべきものは郵便その他の逓信事業であるこれまでは緩慢な飛脚便によつた手紙が迅速に正確に頻繁に集配せらるゝやうになり小包郵便郵便為替郵便貯金の制度の出来たのもみなこの人の賜である海運業や新聞界の先駆者であり電信電話鉄道の計画者であつたまた早稲田大学盲唖学校の教育事業や保険海員掖済などの社会的事業に対する顕著な貢献や率先して東京遷都を主張したり維新前から漢字の廃止を唱へたほどの非凡な先見はいつまでも忘れることは出来ない忠実で果敢で廉潔で趣味は博かつた大正八年四月没年八十才  大正十年十月」
ちなみに、明治二(一八六九)年に同じ静岡藩内にいた前島と出会った後、民部省改正掛、北越鉄道の創設等と関係することのあった渋沢は、『鴻爪痕』(一九二〇年、市野弥三郎編、前島弥発行)「追懐録」(十七頁)で「中々勝れた人だと思って評判に聞いただけの明敏であり、又物に当ると種々なる考の出る御人、新しい仕事に十分応用の才のある御方」と出会った頃の印象を述べています。

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大正十一年の石碑除幕式の様子

この記事は、「逓信総合博物館 展示品・所蔵品紹介」『通信文化』(16号、通巻1226号、44p、公益財団法人通信文化協会発行、2013年)掲載記事からの転載です