前島密の引っ越し事情
収蔵品
1 幕末、江戸の我が家 2 維新後は静岡、東京、ロンドン3 自宅が郵便業務用の厩に!?4 コレラが原因で転居!?5 終の棲家、小石川の本宅と芦名の如々山荘
前島密は引っ越しの多い人でした。1835(天保6)年に現在の新潟県上越市で生まれ、7歳で母と糸魚川へ。12歳で単身江戸に出て以降10代は住み込みで苦学し、20代は国防を考え港湾を巡り全国各地で学ぶ日々。30代になり江戸に居を構えますが、その後も何度も引っ越しを重ねています。
理由はなんだったのでしょうか? 前島密の江戸・東京での居住地を中心に、その引っ越し事情に迫ります【表】。
1 幕末、江戸の我が家
全国行脚ののち、1866(慶応2)年に幕臣前島錠次郎の養子となり、前島家のあった江戸の牛込赤城下町(現在の東京都新宿区赤城下町)に転居。同年、幕府開成所の仕事を得て、本所三笠町(現在の東京都墨田区亀沢三丁目・四丁目周辺)に百坪の屋敷を拝領しています【図1】。ここは前島密にとって良い待遇の住まいでしたが、兵庫開港に伴い港湾の仕事をしたいと、せっかく得た数学教授の職や拝領屋敷を投げうって、一時神戸に居を移しています。

【図1】本所三笠町に与えられた「拝領屋敷」。前島来助「由緒書・親類書」(WAA‐0001‐16‐1)
2 維新後は静岡、東京、ロンドン
1868(慶応4・明治元)年、大政奉還後は徳川家に従って駿河藩(静岡県)へ。前島密は当時の境遇について、維新後は「ひどく貧乏であった。聊か(いささか)面目を具した邸宅を構えたのは、表四番町に移った時である」(1) と語っており、明治新政府に採用後の1870(明治3)年ごろのことのようです。約千坪の蔵のある物件で当時の住宅相場では安価な部類の300円でしたが、自ら貧しい生活であったと記しているように、約4年間のローンを組んでやっとの思いで購入したといいます。
同年、郵便制度を立案してすぐに約1年の英国出張を命ぜられ、ロンドンのノッティングヒルで、数名の日本人と異国での下宿住まいも経験しました。
3 自宅が郵便業務用の厩に!?
1871(明治4)年の郵便創業後、郵便集配のために馬を使った集配が行われていました。当初は局舎で厩が十分確保できずに一時は番町の前島邸の長屋を修繕して厩にしていましたが手狭に。これがきっかけで深川清住町(現在の東京都江東区清澄)に居を移すことになりました。
4 コレラが原因で転居!?
この深川邸宅【図2】は、松江藩藩主松平晴郷(不昧公)の元屋敷であり、庭の設計が趣味だった前島密にとって、その美麗な庭園も選定理由だったことでしょう。
気に入っていたものの、1877(明治10)年にコレラの影響で、付近の井戸の水質汚染があり、翌年には麹町の永田町に転居することとなります。
前島密にとって、永田町の住まいは良い思い出の地とはいえないものでした。その理由は政治活動にありました。このころの前島密は、1881(明治14)年には駅逓総官の役職を辞して、大隈重信の立憲改進党結成に協力していました。
当時の官僚は「改進党を見る事蛇蝎の如く、殊更に謀反人呼ばわり」(2) という状況。当時、永田町エリアには官僚が多く居住していたため、前島密の子女が、通う女学校で前島が謀反人だとからかわれるということがあり、引っ越しを決意したといいます。
大邸宅であったものの、低価格で岩倉具視に売却し手放しています。大隈重信や渋沢栄一が前島密の性格を「短気であるが誠実」と伝えていますが 、このエピソードにはそんな前島密の性格の一旦が垣間見えるようです。

【図2】右下に「前島密」の邸宅を示す記載がある。朝倉寛著「東京大絵図 明治九年版」(部分・LG--97[J--424])
5 終の棲家、小石川の本宅と芦名の如々山荘
1883(明治16)年から晩年まで、本宅として居住したのは、小石川(東京)の邸宅【図3】でした。1911(明治44)年11月、76歳を迎えた前島密は、芦名(横須賀市)にある浄楽寺に「如々山荘」【図4】と名付けた別邸を設け、隠退します。東京からの相談対応や地域の小学校への訪問や教育、地域の人との交流に積極的に取り組みながら、1919年(大正8)年4月27日、この山荘で息を引き取ります。前年に亡くなった仲子夫人とともに、山荘のあったこの浄楽寺で富士山をかたどった墓碑の下で眠りについています。

【図3】左から3番目が前島密。「前島密翁御一家(目白の自邸にて)」(WBB-0047)

【図4】「前島密翁(芦名別邸)」(WBB-0047)
(主席学芸員 井村恵美)
(注)