博物館ノート

前島密一代記

収蔵品

「前島密一代記」は、郵政事業の創始者「前島密」の生誕150年を記念し、昭和60年に梶鮎太氏によって描かれた作品です。この絵は、逓信総合博物館において開催した「前島密生誕150年記念展」に展示したものです。
では、前島密の人生と業績を42枚の絵と解説によってご紹介します。

1. 母に教えられて(0才〜4才)

1. 母に教えられて(0才〜4才)前島密は、天保6(1835)年1月7日に、新潟県上越市大字下池部の農家に生まれ、上野房五郎と名づけられた。母ていは高田藩士の娘であった。父助右衛門はその年の8月11日に病没する。4歳のとき母は房五郎を連れて実家のある高田に別居し、裁縫などの仕事により生計をたてながら、錦絵や往来物(江戸時代の教科書)により房五郎を教育した。

2. 医学を目指す(7才)

2. 医学を目指す(7才)7歳の春に糸魚川に移住し、藩医の叔父相沢文仲に養われ、医学を志した。ある日、俳句の会を手伝いながら作った「夕鴉(からす)しょんぼりとまる冬木立」の句が人々にほめられ、賞品をもらって家に帰り、喜んで母に告げたところ、「幼いころ人にほめられ、自分の才能におぼれて大成しなかった人が多い」といましめられ、房五郎は一生の教訓にした。

3. 母と別れて(10才)

3. 母と別れて(10才)高田藩の儒学者倉石典太が私塾を開いていることを聞き、入塾するため、10歳の冬にはじめて母から離れひとり高田の伯父伊藤源之丞の家に入った。しかし、伯父によろこばれず、下池部の生まれた家(上野家)に移り、そこから7km離れた高田の塾まで、冬はけわしい雪道を往復して通い勉強した。

4. 江戸への旅立ち(12才)

4. 江戸への旅立ち(12才)江戸ではオランダ医学が進んでいると聞き、江戸に出て勉強したいと思うようになった。12歳の時に母に決心を打ち明けたところ、「一旦方針を定めたら頑張って前進しなさい」と励まされ、わずかな旅費と学資をもらって一人で江戸に旅立った。

5. 苦しい日々(12才〜16才)

5. 苦しい日々(12才〜16才)弘化4(1847)年9月、江戸に着いた房五郎は、文房具や雑用品を買うと、残ったお金は3か月の学費にも足りなかった。医者の家を尋ねては雇ってもらい、手伝いをしながら学問を続けた。また、政治・兵法・西洋の事情などの本を書き写す筆耕の仕事を請け負って生活した。「三兵タクキチ」など、筆耕により得た新知識が、のちの仕事に大いに役立った。

6. 黒船ショック(18才)

6. 黒船ショック(18才)嘉永6(1853)年18歳のころ、アメリカ使節ペリー提督が、蒸気船の軍艦4隻で浦賀 (神奈川県)に来航した。房五郎はこの様子をつぶさに見ようと、久里浜でペリーと会見する接見役の井戸石見守(いわみのかみ)の従者となり浦賀に随行した。軍艦や海軍の軍人の行動が立派なことに驚き、国防を考察し建白書を書くため、全国の砲台や港湾を見てまわる旅に出た。

7. 国防のため港湾を見て回る(19才)

7. 国防のため港湾を見て回る(19才)江戸を立って越後に行き、母と兄に別れを告げるため家に立ち寄った。母から、「男児が志(こころざし)を立てたら何ものも恐れてはいけない。ただ注意すべきは長旅の健康」と別れの言葉と旅費をもらった。北陸道、山陰道を経て、下関(山口県)を通り、舟で小倉(福岡県)に到り、九州を一周した。さらに四国をめぐり、紀州(和歌山県)、伊勢(三重県)から東海道を経て、道中の主な港湾はほとんど見学して江戸に戻った。

8. 学問の大切さを知る(20才)

8. 学問の大切さを知る(20才)しかし、血気にかられての港湾見学は、学問の伴わない実のない行動であったと気付き、今後は勉強し実力をつけて行動しなければいけないと自分を戒めた。後に外国奉行となる岩瀬忠震(いわせただなり)から「これからの志士はオランダ語ではなく英語を学ぶべきである」と諭され、英語を学ぼうとしたが江戸には教師が見当たらず、下曽根(しもそね)金三郎に兵法・砲術の教えを受け、設楽弾正(しだらだんしょう)の家臣から数学を学んだ。

9. 商船を志向する(22才)

9. 商船を志向する(22才)長崎でオランダ海軍伝習生となり機関学を修めた竹内卯吉郎(たけうちうきちろう)が観光丸で江戸に来て、軍艦教授所の教授となった。安政4(1857)年、房五郎は彼を尋ねて機関学を学び、同教授所の生徒となり実習生として江戸湾の観光丸に乗船させてもらった。横須賀湾に一泊した夜、雪中の甲板上で、竹内卯吉郎から海に囲まれたわが国の将来について教えられ感銘を受けた。このころから商船界に目を向けるようになった。

10. あこがれの函館行(23才〜26才)

10. あこがれの函館行(23才〜26才)函館にいる武田斐三郎(たけだあやさぶろう)が函館の諸術調所で商船業務を教授していると聞き、東北の海岸を旅して函館に向かった。このとき、巻退蔵(まきたいぞう)と改名した。函館では安政6(1859)年24歳の春に入塾を許され、航海測量と帆船の運転について学び、函館丸で2年間に2回の日本周回の航海実習を経験した。その後、回船業者や船員の実務を学び樺太南岸まで航行したが、函館奉行所の向山(むこうやま)栄五郎に従って江戸に帰った。

11. 洋行を企てる(26才〜28才)

11. 洋行を企てる(26才〜28才)ロシア艦船事件処理のために対馬へ赴く外国奉行組頭となった向山栄五郎に随行する。その後長崎でアメリカ人宣教師ウィリアムズフルベッキから英数学を学ぶが、文久3(1863)年遣欧使節の通訳となった何礼之(がのりゆき)の従者として洋行するチャンスをつかみ江戸に向かった。しかし、乗船した福岡藩のコロンビア号が故障し、江戸に到着したのは池田筑後守等遣欧使節一行が出発した後であり、洋行は失敗に終わった。

12. 向学心のある若者のために(29才)

12. 向学心のある若者のために(29才)何礼之は長崎奉行所の英語稽古所の学頭であり、別に家塾を開き、退蔵はその塾長となる。退蔵は、英語を学ぶ仲間で生活資金に困窮している若者が、安い費用で生活できるように「倍社(ばいしゃ)」と称する学舎を開いた。その財政支援のために紀州藩の蒸気船の監督者としての仕事をしている間に金銭問題が生じて塾は閉じることになった。

13. 英語教師となったが(30才)

13. 英語教師となったが(30才)薩摩藩士で倍社の一員である鮫島誠造(さめじませいぞう)を通じて薩摩藩から開成学校の英語教授として招かれ、藩の汽船で鹿児島に赴いた。開成学校の生徒の数は日が立つにつれ増えてきたため、倍社の塾生2名を呼びよせ助手とした。鹿児島では手厚く処遇されたが、藩内の情勢は倒幕となり、開国主義の退蔵の考えとは異なってきた。兄又右衛門死去の知らせを受けたのを機に鹿児島を去り帰郷の途についた。

14. 前島家の養子となる(31才)

14. 前島家の養子となる(31才)江戸に戻った退蔵は、慶応2(1866)年11月10日、江戸城「つつじの間」において、京都見廻組の役にあった前島錠次郎(まえじまじょうじろう)の跡目相続を認められ、幕臣となり前島来助(まえじまらいすけ)と名乗った。このころ幕臣清水與一郎(よいちろう)の娘奈何(なか)と結婚している。無役であったため、近隣の若者に学問の指導を行った。その中に、のちに衆議院議長、逓信(ていしん)大臣となる星亨(ほしとおる)がいる。この年の末、「漢字御廃止之議」を建議している。

15. 幕臣となって(31才)

15. 幕臣となって(31才)幕臣となった前島来助は、学問の力を認められて幕府の開成所の翻訳筆記方となり、慶応3年3月には数学教授となった。また、勝海舟(かつかいしゅう)の前で会津藩士に日本の現状と将来のあるべき姿を述べたところ、「天下の識者は皆同じような意見である。よろしく議論せよ」と言われた。

16. 港の仕事(32才)

16. 港の仕事(32才)外交の事務に通じるためには港湾事務の知識を得なければと考えていた折に、神戸開港のことを知り、来助は新たに兵庫奉行となった柴田日向守に頼んでその一員となった。赴任時に税関傭英人のシイル氏と親しくなり多くを学んだ。神戸では居留地規則を翻訳して頭角をあらわし、すぐに税関や保税倉庫の事務に習熟するとあたかも長官のように処理していった。

17. 領地削減の書を将軍に(32才)

17. 領地削減の書を将軍に(32才)慶応3(1867)年、将軍慶喜は朝廷に対し大政奉還を行った。来助は、朝廷がこれから国を運営していく上で巨額の経費が必要となることから、大政を奉還するだけでなく幕府の所有している領地の3分の2を削減し還納すべきと考え、重刑に処せられる危険を覚悟で領地削減の議を建言した。来助は外国と対等に外交を行うために、朝廷を中心とした全国を代表する中央政府を考えていた。

18. 徳川とともに静岡へ(33才〜34才)

18. 徳川とともに静岡へ(33才〜34才)大政奉還後の徳川家は、静岡に移った。来助は駿河藩(静岡県)の公用人となって旧幕臣の措置、新藩の経営などを行い、徳川慶喜(よしのぶの)跡を継いだ幼い家達(いえさと)を助けた。遠州中泉奉行(えんしゅうなかいずみぶぎょう)となると、江戸から移住してくる旧幕臣たちのために長屋を建設し、産物を陳列して売らせたり、織物や養蚕を習わせたりしたが、奉行職が廃止となり、藩内の開業方物産掛(かかり)となった。このころ、名前を前島密(まえじまひそか)と改めた。

19. 東京へ都が移る(33才)

19. 東京へ都が移る(33才)政治の実権が新政府に移ると、新しい時代にふさわしい都が必要となり、大久保利通(おおくぼとしみち)は大阪遷都を建言した。慶応4(1868)年これを知った密は、国内政治の安定を図るためには江戸が最もふさわしいとする「江戸遷都論」を唱え、英国公使パークスの船で大阪まで行き大久保に建言書を送った。この年7月に江戸は東京となり、9月に明治と改元された。その後、天皇が東京に移られると、国の重要な機関も次々と移転し、東京は首都としての機能をもつようになった。

20. 密と新時代(35才)

20. 密と新時代(35才)明治2(1869)年12月、前島密は明治政府から出仕を要請され、民部省(みんぶしょう)の改正掛(かいせいかかり)に勤めることとなった。改正掛は、渋沢栄一(しぶさわえいいち)を中心に旧来の制度を改革し、近代国家を建設するための企画立案を行うところで、いわば明治政府のシンクタンクであった。ここで、密は大隈重信(おおくましげのぶ)から鉄道建設のための案を作成するよう命じられ、土木・建設費や収入支出の計算書「鉄道臆測(てつどうおくそく)」を数日でまとめあげた。この結果、東京・横浜間の鉄道建設は太政官(だじょうかん)で決定された。

21. 郵便誕生の第一歩(35才)

21. 郵便誕生の第一歩(35才)明治3(1870)年4月、密は租税権正(そぜいごんのかみ)となり、租税の金納化など税法改正に取組んだ。そして翌5月、駅逓司(えきていし)の実質上の長官である駅逓権正兼務を命じられた。駅逓司は水陸運輸駅路を担当する役所で通信も管理していた。密は全国を旅した経験を生かして駅制改革を進めたが、通信の不便さを実感していたことから、全国的な通信網の整備についても考えていた。ある日、政府が官用通信のために飛脚に支払う回議文書を見て、その高額な金額を資金とすれば郵便事業を開始することができると考えた。

22. 郵便の仕組みを作る(35才)

22. 郵便の仕組みを作る(35才)密は早速夜を徹して腹案を作り、改正掛の会議にかけ、賛成を得たのち、具体案を20日間かけてまとめあげた。そして、6月2日に「国内に広くだれでも自由に利用できる通信制度を作る予定であるが、まず試験的に東海道筋に東京から京都まで72時間、大阪まで78時間で毎日往復する郵便制度を実施したい。」と郵便創業の建議を行った。東京、京都・大阪に郵便役所と、東海道の各宿駅に郵便取扱所を設け、郵便料金は東京から藤沢までが百文、大阪までが一貫五百文といった具合に、あて地別とする内容だった。

23. 世界の実情を見る(35才)

23. 世界の実情を見る(35才)郵便創業の立案後、密は駅逓権正の兼任を解かれ、ネルソン・レイの鉄道起債破棄のために派遣される上野景範(かげのり)の随行を命じられ、イギリスに渡った。そのころのイギリスは産業革命の時代に入り、交通や通信の発達は目覚ましいものがあった。鉄道はすでに幹線網を完成し、主要工業都市は線路で結ばれていた。この鉄道網を軸に工業が飛躍的に発展し、これまでにない繁栄をイギリスにもたらしているのを見て、密は、日本の進むべき道を深く考えた。

24. イギリスの郵便事情(35才〜37才)

24. イギリスの郵便事情(35才〜37才)イギリスは1840年にローランド・ヒルの改革により、世界にさきがけて近代郵便制度を実施した。この制度は、切手による料金前納と均一料金制によって誰もが低料金で簡単に利用できるものであった。密が渡英した1870年ごろには、郵便はすでに欧米の一般的な公共通信手段となっていた。また、イギリスの郵便局では、郵便だけではなく郵便為替、郵便貯金も取扱い、郵便保険も実施していた。密は公務の合間に郵便局の職員に直接話を聞き、実際にこれらを利用するなどして、郵便局の業務を十分に学んで帰国した。

25. 鉄道が郵便にもたらしたもの

25. 鉄道が郵便にもたらしたものイギリスで最初に郵便馬車が走ったのは、1784年のロンドン・ブリストル間であった。その後郵便馬車の路線は拡大し、19世紀半ばにはイギリス全土を覆っていた。しかし、1825年に蒸気機関車が発明されてからは鉄道を利用した郵便物の輸送が実施され、次第に主力となっていった。そして専用の郵便車が登場すると、車内での郵便物の区分が可能となり、作業はよりスピード化していった。日本では明治5(1872)年鉄道が開業し郵便物が搭載された。

26. 郵便の基礎を築く(36才〜37才)

26. 郵便の基礎を築く(36才〜37才)密の後任、杉浦譲(すぎうらゆずる)によって、明治4(1871)年3月1日(新暦4月20日)郵便の取扱いが開始された。イギリスで公務のかたわら郵便事業を見聞してきた密は、同年8月に帰国すると自ら希望して駅逓頭(えきていのかみ)となり、先ず郵便規則を整備し、書状だけでなく新聞や雑誌等の取扱いを開始した。翌5年に全国に郵便網を延長し、6年には全国を同じ料金で送達する均一料金制を導入した。

27. 駅逓寮の現実(36才)

27. 駅逓寮の現実(36才)郵便を誕生させた駅逓司は、明治4(1871)年8月に駅逓寮に昇格した。しかし、駅逓寮の建物は日本橋近くの幕府の魚納屋役場を改造したもので、老朽化しており、駅逓頭となった密の机は押入れを改造した中に置かれていた。夏場は暑さが厳しく、薄壁越しには近所の稲荷でやっている講談の声や酔客の喧騒が聞こえてきて実に騒々しかった。

28. 郵便ポストの登場(36才)

28. 郵便ポストの登場(36才)郵便集配員は東京が12人、京都が8人、大阪が10人で、地理に詳しく足の速い人が選ばれた。ポストからの取集めは毎日午後2時に開始し、午後3時までに帰局した。取集めた郵便には、切手の再使用防止のため、「検査済」と書かれた日本最初の郵便印が切手の上に押された。配達は、郵便が到着すると直ちに行われたが、東京、京都、大阪の市街地と東海道各宿駅の近在に限られていた。

29. 街道用の郵便ポスト(36才)

29. 街道用の郵便ポスト(36才)東京・京都・大阪間の東海道の各宿駅に郵便取扱所(現在の郵便局)が62ヵ所開設され、街道筋用の郵便ポストが上り方用と下り方用の2個設置された。郵便業務は宿駅の駅逓業務の一環として行われたために郵便取扱所として独立した建物はなく、伝馬所の一隅を仕切って行った。取り扱ったのは書状のみで、宿駅間を継立する運送員は各宿駅に8人程度配置され、一人3貫目(約11kg)の郵便行李を担ぎ、2時間に5里(約20km)を走った

30. 外国との郵便(37才〜45才)

30. 外国との郵便(37才〜45才)外国向け、あるいは外国から来る郵便物の取扱いは、明治5(1872)年にわが国に設置されていた外国の郵便局を利用して始まった。密は専門家のアメリカ人ブライアンを雇い交渉を重ね、明治8年に、アメリカと対等な立場で日米郵便交換条約を結び、正式に外国郵便が開始された。明治10年には万国郵便連合(略称UPU)に加入して世界の国々と自由に郵便を交換することができるようになった。密は、さらに侵害されている郵便の主権を回復させるために交渉を重ね、わが国にあった外国郵便局は明治13年までにすべて撤去された。

31. 郵便為替(40才)

31. 郵便為替(40才)密は郵便制度を発案したときに、通信だけでなく送金の重要性について認識していた。イギリスで郵便為替の発達した状況を知り、帰国後すぐに検討を始め、明治5年には為替の規則や施行案を作成したが、資金難のため実施できなかった。明治7年になってやっと資金の都合がつき、取扱い者を集めて計算の整理法から証書による金銭の授受法まで練習させ、明治8(1875)年1月2日から、国内110の郵便局で取扱いを開始した。半年後には取扱い数も倍増し、急速に発展して経済活動が活発になる一助となった。

32. 郵便貯金(40才)

32. 郵便貯金(40才)郵便貯金も為替と同じく検討を行い、明治6年には規則案ができていたが、簿記のできる人がいないことや金利のことがまとまらず、開始は明治8年5月2日となった。東京市内18局と横浜市内1局で取扱いを開始したが、当時は貯蓄の風習が乏しく貯金者が少なかったので、密は貯金発端金を人々に与えて貯金してもらったりしたが、貯金の業務は振るわなかった。しかし、貯蓄思想の普及に密が自ら筆をとるなどして努力を重ね、貯蓄者数が初期の917名に対して、明治11年には1万名に増加した。

33. 簡易保険(40才)

33. 簡易保険(40才)密は、貯金の創業のころ、イギリスの郵便保険を参考に国営の生命保険と養老年金事業を始めるための草案を準備していた。しかし、当時は正確な余命数などを知ることが困難な上に国民生活上からも時期尚早であると考えられたため実現しなかった。そのため簡易保険は大正5(1916)年、郵便年金は大正15年に取扱いを開始した。

34. 新聞と郵便(36才〜38才)

34. 新聞と郵便(36才〜38才)欧米の新聞は郵便によって発展した歴史を持つ。密は、日本におけるその発達を助けるために、明治4(1871)年12月新聞雑誌の取扱いを開始し料金も低料とした。その翌5年6月には、郵便取扱人の太田金右衛門を発行者として、郵便報知新聞(のちの報知新聞)を創刊した。さらに、情報がなければ新聞記事が作れないため、明治6年には新聞の原稿を無料で送れるようにした。

35. 新しい運送業(37才)

35. 新しい運送業(37才)明治5年、宿駅制度が廃止され、郵便馬車や蒸気船、鉄道などによる新しい運送業が郵便輸送を中心として誕生した。定飛脚を中心とした飛脚業者は、当初郵便に競争を挑んだが、密の説得を受け入れ、陸上の貨物輸送を業務とする陸運元会社(りくうんもとがいしゃ)(現在の日本通運株式会社)を創立した。各種の郵便業務を請け負い、明治10年には、神奈川・京都間を馬車、人力車、脚夫、船を利用して郵便を56時間で運んだ。

36. 海運振興(40才〜45才)

36. 海運振興(40才〜45才)密は、航海術を学び、周りを海に囲まれたわが国は商船事業を確立させなければならないと、早くから考えていた。明治5年日本帝国郵便蒸気船会社を発足させたが失敗、明治8年には三菱商会(後の郵便汽船三菱会社) を助成して、海運振興政策を進めることとなった。これが今日の日本郵船株式会社の前身である。また、明治13(1880)年、海員の素質の向上とその保護救済などを目的とする日本海員掖済会(えきさいかい)を発足させ、その後も長くその発展に尽くした。

37. 西南戦争(41才〜42才)

37. 西南戦争(41才〜42才)士族の反乱による電信線の切断に対応し、迅速な通信を確保するために、継送で最至急の手紙を運ぶ飛信逓送(ひしんていそう)の制度を設けた。密は明治9(1876)年内務少輔となり、内政の不安な時期に駅逓のみならず内政全般の責任を負うこととなった。明治10年鹿児島県士族が暴発すると、大久保内務卿は密に代理を命じ、京都へ向かった。密は、警察を含む内政一切を取り仕切り、戦線へ派遣する巡査(新選旅団(しんせんりょだん))を徴募した。

38. 東京専門学校(52才)

38. 東京専門学校(52才)明治15(1882)年10月、早稲田大学の前身、東京専門学校が開校した。この学校は大隈重信が学問の自主独立をめざし私財を投じて建設したもので、密は評議員となった。明治19年に校務を引き受け、同20年には校長の職について、経営の独立等困難な問題を処理し財政の基盤を固めた。明治35年に早稲田大学を開校するにあたっては基金募集委員長を務めた。

39. 逓信省の設立(50才)

39. 逓信省の設立(50才)明治18(1885)年12月に内閣制度が発足すると、「逓信省」が新設された。これは、以前から密が望んでいたものだった。農商務省から駅逓局、管船局を移管し、廃止された工部省から電信局、燈台局を引き継いでひとつの省とした。これにより、逓信省は通信・交通全体を統括する中央省庁となった。逓信の名称は駅逓局の「逓」と電信局の「信」を合わせて新しく作られた言葉である。後に工務局長となる志田林三郎は明治16年に駅逓電信両局の合併を求める建議書を提出していた。

40. 電話交換はじまる(53才・55才・56才)

40. 電話交換はじまる(53才・55才・56才)電話事業については、明治16年以来太政官と工部省において官営か民営かで議論されていたが、逓信省設立後もその対立は続いていた。明治21(1888)年逓信大臣榎本武揚(えのもとたけあき)からの要請を受け逓信省の次官となった密は官営に意見を統一し、明治23年12月に電話交換業務を東京・横浜市内とその相互間に開設した。交換業務開始時は東京179名、横浜45名で予定の300名に達していなかったが、その便利さが理解されるとその後は急速に発展していった。密は、懸案を解決し電話交換業務が順調に行われるようになったのを見届けて次官を辞職した

41. 銅像が建つ(69才・81才)

41. 銅像が建つ(69才・81才)UPU加盟25周年を迎えた明治35年、密は男爵を授けられ、明治37年には貴族院議員となる。大正4(1915)年、密が80歳の高齢に達したのを記念して祝寿会が開かれ、その席で銅像建設の声があがり、100名近い人々から寄附金が寄せられた。彫刻家新海竹太郎(しんかいたけたろう)が銅像を製作し、台座は建築家伊東忠太(いとうちゅうた)が設計して、逓信省構内に建てられた。大正5年7月1日に盛大な除幕式が行われ、箕浦(みのうら)逓信大臣の祝辞、大隈重信首相、渋沢栄一の演説などがあって、密の功績をたたえた。この銅像は、現在前島記念館の前庭に設置されている。

42. 芦名の墓地に眠る(76才・82才・84才)

42. 芦名の墓地に眠る(76才・82才・84才)明治43(1910)年75歳になった密は、ほとんどの職を辞し、若き日の思い出が残る九州各地を旅行した。その後、神奈川県芦名(横須賀市)に隠居所「如々山荘」を設け、終生ここで過ごした。ここでの生活は小学生の児童や村民と親しみ、海や山に遊ぶなど穏やかなものであった。大正6(1917)年に仲子夫人が69歳で死去、落胆しその後は健康がすぐれず大正8年4月27日午前5時に84歳の生涯を閉じた。密夫妻の墓は山荘に隣接する浄楽寺(じょうらくじ)にある。