新春の遺風「懸想文売り」
収蔵品
懸想文売り(けそうぶみうり)。令和の今、この言葉を耳にする人はどれほどいるでしょうか。その姿は明治初期までは、特に京都や大阪を中心に、新年の訪れを告げる縁起物として親しまれていました。郵政博物館には、この懸想文売りを描いた資料が所蔵されており、当時の風情を今に伝えています。
「懸想文売り」の歴史
懸想文とは、「恋文」を意味します。平安時代、恋愛において文(ふみ)は重要な役割がありました。恋の始まりはまず文を贈ることからであり、自作の和歌をしたためた文に香(こう)を焚きしめ、花の枝や草花を添えて従者・女房・稚児などの手を通して意中の相手に届けられました。
この一通から教養や人柄・センスを見極め、会うか否かを判断していました。しかし、誰もが和歌に長けていたわけではありません。何とか恋を成就させたい人の中には、和歌の上手い人物に代筆を頼むこともありました。中世には恋文を代筆したり販売したりする人々が現れ、江戸時代に最も盛んになり懸想文売りとして定着していきます。
江戸時代の懸想文売りは、単なる恋文売りではなく、懸想文売りから買う懸想文は「持っていると良縁に恵まれる」というお守りのような意味を持つようになりました。未婚の女性たちは、たんすや鏡台の引き出しに人に見られないようにしまっておき、縁起を担いだといいます。【図1】
販売時期は年の押し迫った除夜のころから松の内に限定され、新春の象徴として定着していきました。
売り手の多くは、下級僧侶や神社の雑役、あるいは貧しい公家など、教養はあるが収入の少ない人々だったため、身分や個人を特定されないように顔を白布で覆い、紅梅色の水干(すいかん)(または素袍(すおう))に子日(ねのひ)の松と熊笹を縫い留め、烏帽子をかぶり、首から文書袋をさげて懸想文を結び付けた梅の枝を背負うという姿で「ふみめせ、ふみめせ。」という声をかけながら売り歩きました。(1)(2)
まるで歩く門松のようなおめでたい姿で懸想文を売り歩いていたのです。
販売時期の特別さや、正体を知られてはならないという神秘性も相まって、懸想文売りの文は恋文から縁起物、さらに年齢や性別を問わない美容やビジネスにおける良縁のお守り、最終的には一年の吉凶を占うおみくじのような存在へ変化していきました。
郵便制度後の懸想文売りと日本の情緒
江戸時代には飛脚が存在しましたが、庶民の多くは飛脚に依頼せず知人や奉公人などが手紙を届けるのが一般的でした。
明治時代に入ると、外国からの文化や技術が急速に流入し、政治や社会制度が大きく変化し、郵便制度も整備されます。生活様式にも近代化の波が容赦なく押し寄せ、資本主義の発展は物質的な豊かさを重視する価値観を押し広めました。恋愛観の変化や迷信を避ける風潮も強まり、こうした社会の変化の中で、懸想文売りは急速に姿を消していきます。
しかし、明治の文化人や絵師の中には江戸の文化を懐かしみ、懸想文売りを好んで描く者もいました。その一人が水野年方(1866-1908(慶応2‐明治41))です。年方は月岡芳年の門下に学んだ絵師で、古典的な題材を近代的な感覚で再解釈することを得意としていました。
代表作『三十六佳撰』(1893 (明治26)年/木版多色刷)には、懸想文売りを題材とした作品【図2】が含まれています。明治という大きな時代の転換期の中で、江戸時代の新春を象徴する存在として懸想文売りを描いています。また挿絵などでも活躍した年方はそこにも懸想文売り【図3】を登場させています。
年方の作品からは、明治という大きな転換期にあっても、江戸時代の新春を象徴する存在として懸想文売りを残したいという思いが感じられます。事実、今ではほとんど知られない懸想文売りは、こうした作品を通してたびたび表舞台に姿を現します。
独特の装束と不思議な生業にひきつけられ懸想文売りの歴史をたどる時、人々がいかに手紙を丁重に扱い、思いを込めてきたかが見えてきます。恋愛観の違いや教養の厚さなど、時代を超えた文化の層が折り重なるように浮かび上がってくるのです。
郵政博物館のこうした資料は単なる美術品ではなく、手紙という情報通信の営みが、時代の風を受けながら、豊かな文化を育んできた歩みを語り継ぐ貴重な証言者でもあるのです。そして現在の私たちに文化的価値を伝え継ぎ、日本人としてのアイデンティティの源泉を守る役割を果たしています。
現在では懸想文売りの姿を見ることはほとんどありませんが、京都市左京区の須賀神社では毎年2月2日・3日の節分祭に懸想文売りが登場します。平安から江戸末期まで、約千年をかけて形づくられた伝統の姿を今に見ることができるのは、長い歴史をもつ日本ならではの贅沢といえるでしょう。
(学芸員 菊池牧子)
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